最終更新:2006年8月15日
|
エルヴィン・ロンメル
|
|
常に部下とともに戦い、敵からも味方からも敬愛される希有な軍人。1944年、ヒトラー暗殺事件の嫌疑をかけられ自殺を強要される。戦後も西ドイツ陸軍の精神的な支柱となって祖国の再建に寄与するところ大。偉大な作戦家.。一方、功績をアピールする事にも長けていて、それが同僚や上司の不興を買う部分もあったように思われる。それもまた、不要な部下の犠牲を減らす方策の一つだと思うのだが・・・。(副次的役割しか与えられていなかったアフリカ戦線にヒトラーや国民の目を引きつけ補給を潤沢にうけるために)これは、ひいき目だろうか?カメラが趣味でいろいろ撮しているようだが、腕前はイマイチらしいところが、なんとも魅力的。御大ルントシュテット元帥に言わせれば「まあ、優秀な師団長・・」ということらしい。なにかとても納得できる評価だが、だからこそあの活躍が出来たとも言えるだろう。なんにせよ、このHPの動機であり、目的であり手段でもあるという敬愛すべき親父。毎年10月14日は、なにかいろいろ感じてしまう日である。
|
年 |
月 |
日 |
項 目 |
1891 |
11 |
15 |
シュトゥットガルト近郊のハイデルハイムの教師家庭に生まれる |
1910 |
7 |
19 |
士官候補生として歩兵連隊に入隊 |
1911 |
3 |
|
ダンツィヒ士官学校に入学・翌年1月に少尉に任官 |
1914 |
8 |
|
第一次世界大戦に歩兵将校として従軍。翌年1月、1級鉄十字章を授与される(中尉に昇進) |
1915 |
10 |
|
ヴュルテンブルグ山岳猟兵大隊に転属。翌年からルーマニア戦線、さらに1917年からイタリアを転戦。 |
1917 |
10 |
|
カポレット戦線にて山岳猟兵中隊を指揮。イタリア1個師団を撃滅。プール・ル・メリット勲章を授与される。 |
1918 |
11 |
|
参謀将校として敗戦を迎えるが、ワイマール共和国軍に奉職できる。 |
1929 |
10 |
1 |
4年間のドレスデン歩兵学校教官の経験をもとに著書「歩兵の攻撃」を執筆する。 |
1933 |
10 |
1 |
第17歩兵連隊の大隊長に任官。 |
1934 |
9 |
30 |
ヒトラーとはじめて会い知己となる。 |
1935 |
9 |
30 |
大佐に昇進してポツダム歩兵学校教官 |
1939 |
9 |
|
第二次世界大戦開戦後、ポーランド侵攻ではヒトラーの前方司令部護衛責任者となる。 |
1940 |
2 |
10 |
第7戦車師団師団長に任官。「幽霊師団」の勇名をはせる。ここでも88でマチルダを撃破。 |
1941 |
1 |
|
中将に任官。2月6日付けでアフリカ軍団司令官に任命される |
1941 |
7 |
|
大将に昇進 |
1941 |
8 |
|
アフリカ機甲軍司令官に就任 |
1942 |
1 |
|
剣付柏葉騎士十字章を授与される。英軍に反撃開始。 |
1942 |
6 |
|
トブルクを攻略。元帥に昇進。英軍をエジプト領にまで押し返す。 |
1942 |
7 |
|
エル・アラメイン周辺にて戦闘が始まる |
1942 |
9 |
23 |
肝臓病悪化のため一時帰国(10月26日に帰任) |
1942 |
11 |
8 |
モロッコに米英連合軍上陸、枢軸軍は全面的な後退に移る。 |
1943 |
1 |
26 |
アフリカ機甲軍司令官を解任されるも残留して任務続行する。 |
|
2 |
23 |
アフリカ軍集団司令官に就任。チュニジア戦の指揮を執る。 |
|
3 |
9 |
持病悪化のため帰国直後ダイヤモンド付柏葉騎士十字章を授与される |
|
7 |
15 |
中部イタリアのB軍集団司令官に就任 |
1944 |
1 |
|
ルントシュテット元帥麾下のフランス方面B軍集団司令官に就任 |
|
3 |
|
西方軍司令部のメンバーと和平促進の可能性を協議するがこれが後に嫌疑の元となる。 |
|
6 |
6 |
連合軍、ノルマンディに上陸(ロンメルは休暇で帰国中) |
|
7 |
17 |
カーン市の南東を車で移動中、RAF戦闘爆撃機の襲撃を受け頭部に重傷を負う。 |
|
7 |
20 |
東プロイセンの総統大本営でヒトラー暗殺未遂事件が起こる |
|
10 |
14 |
ヒトラー暗殺未遂事件に関与した嫌疑を掛けられ服毒自殺を強要される。 |
|
10 |
18 |
ロンメル元帥は七月に受けた戦傷がもとで死亡との公式発表がなされ国葬にふされる |
|
|